古桑庵 — 大正末期の邸宅で、漱石の縁が今もつながっている
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記録 自由が丘1-24-23 熊野神社隣 読 2分

古桑庵 — 大正末期の邸宅で、漱石の縁が今もつながっている

夏目漱石の門人・松岡譲が命名した茶室「古桑庵」が、熊野神社の隣に在る。大正末期の木造邸宅、 100坪の露地、1999年から続く茶房とギャラリー。漱石の縁が自由が丘に、静かに根を張っている。

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熊野神社の隣で、時間が変わる

自由が丘駅から北口を出て、熊野神社の鳥居の手前を左に折れると、緑の奥に古い木造の建物が見えてくる。100坪の敷地に、大正末期に建てられた邸宅がそのまま残っている。

建築主は渡辺彦氏。母屋が建てられてから、茶室が完成したのは1954年(昭和29年)のことだった。茶室の名をつけたのは、夏目漱石の門人かつ娘婿となった近代〜昭和の小説家、松岡譲だった。

「古桑庵」という名前の由来は、松岡の郷里・新潟長岡から運んできた古い桑の木にある。わざわざ遠くの土地から材料を調達してまで、この場所に茶室をつくろうとした人がいたということ。その事実だけで、少し立ち止まってしまう。

松岡がわざわざ長岡の桑材を持ち込んだことは、この茶室が単なる設えではなく、自分の来歴と漱石の縁とを物理的に結びつける場所として構想されていたことを示している。木材という形で「縁」を床に敷いた。その桑の木が今も古桑庵という名前のなかに生き続けている。

1999年、孫の手で開かれた扉

建築主の孫にあたる中山勢都子さんが、この場所を茶房とギャラリーとして開放したのは1999年のことだった。この場所で育った中山さんは、「古きよき昔を伝え守るため」に茶房として扉を開いた。

築年から数えると、母屋はすでに大正末期の建築だ。中山さんが開放を決めた1999年より前から、この家はずっとここに在った。街が姿を変えていくなかで、邸宅だけは変わらず同じ場所に立ち続けてきた。

中山さんはこの場所で育った人である。生まれた家を茶房として開放するという決断は、家を残すための選択と、街にひとつ場所を還すための選択を、同時に果たすものでもあった。「古きよき昔を伝え守るため」という言葉が指しているのは、邸宅の保存だけではなく、ここに流れていた時間そのものをどう次に渡すかという問いに近い。

庭は石臼を飛び石として高密度に配した露地になっている。足元に並ぶ石臼は、踏みしめるたびに年月の重さを伝えてくる。松の高木が幹を伸ばし、紅葉も並んで植えられている。季節によって庭の顔が変わるのが、ここを何度も訪ねる人の楽しみでもある。新緑の頃と紅葉の頃では、同じ露地が別の場所のように見える。

抹茶白玉ぜんざいと、茶室のある35席

店内は35席、予約は受け付けていない。畳の間もあり、かつての主屋座敷や茶室が客席として使われている。庭園を眺めながら過ごすことができる空間で、季節ごとにメニューが変わる。座敷で抹茶を待つ時間は、足元の畳が1954年の茶室と大正末期の母屋からそのまま続いているという感覚と重なってくる。

看板メニューには抹茶フロート、かき氷、あんみつ、ところてんが並ぶ。コーヒーやお抹茶もある。古桑庵風抹茶白玉ぜんざいは1,100円で、店名を冠した一品だ。予算の目安は1,000円から1,999円のあいだ。

ギャラリーとしての機能も今も続いていて、骨董品や人形作家・渡辺芙久子の作品、そして展示品の一つに画家・横山大観の手紙がある。茶を点て、器を置いた座敷の傍らに、展示物がある。茶房に入ることと、ギャラリーを見ることが、ここでは同時に起きる。どちらかを目的にして来ても、もう一方が視野に入る構造になっている。鑑賞と喫茶の境界線が、引かれていない。

自由が丘に、こういう場所がある

熊野神社の隣、駅から歩いて5分。予約は不要で、クレジットカードが使える。水曜が定休日。詳しい営業時間は下の表を参照されたい。

大正末期の木造和建築に、畳の間と100坪の露地が同居している。バリアフリー対応や車椅子での来訪については、事前に店舗に直接確認しておくのが安全だ。

漱石の縁を持つ名前、大正末期の木造、中山さんが引き継いだ時間の重さ。それらが重なっているのが、あの小さな門の向こう側だ。

駅を出て、北口へ。そのまま熊野神社の手前を左に折れるだけでいい。

営業情報まとめ

営業時間
平日 (月・火・木・金)12:00 - 18:30
土・日・祝日11:00 - 18:30
定休日水曜日